田辺一彦の歩み

故郷・若狭に活力のある町であり続けてほしいから
苦しみも悲しみも乗り越えて、仲間とともに汗をかく

福井県嶺南地域のこと。そして一昔前の故郷・若狭町について

私が生まれた故郷。元来「三方町」だったこの地は、平成の大合併の一環で隣接する「上中町」と合併し「若狭町」となりました。現在(令和7年)、人口13,000人足らずの小さな町です。出産数は低下し、若者は流出し、高齢者が多くの割合を占める「少子高齢化過疎地域」です。

福井県嶺南地域は「原発銀座」と称されるほど、数多くの原子力発電所が建設されている特殊な地域です。原発が立地している地域は交付金により多くのお金で満たされるため、人口からは考えられないような立派な建物が乱立しています。若狭町は、その地域内にありながら原子力発電所が立地していません。それでも、「原発事故」が起こるたびに、立地地域と同様の風評被害を被ります。また、原子力発電所で大きな事故があれば、立地地域と同等の放射能被害等を被ることは確実でありながら、資金面での恩恵は乏しく、なんとも納得のいかない状況に追いやられています。

この地域に原子力発電所が乱立しはじめたのは昭和35年頃です。それまでは、三方五湖・若狭湾を中心とした観光産業でこの地は成り立っていました。一時は、東京銀座の高級レストランとして有名な「スエヒログループ」がこの地に注目し、宿泊施設を湖畔に建て経営しはじめ、また、三方五湖を見下ろせる山頂にテーマパークを建設する計画もあったほど、この地は景勝地として観光産業が発達してきました。その頃には、スエヒログループ社長が三方五湖に海陸両用飛行機で飛んできたこともあったと聞いています。
昭和45年頃には、三方五湖を一望できる梅丈岳山頂に景色を楽しみながらドライブできる「レインボーライン」が建設されました。三方五湖沿いには国民宿舎「梅丈ロッジ」も建設され、三方五湖周辺は大いに賑わいました。

若狭湾に突き出した「常神半島」は、原子力発電所の建設候補地としても名が上がっていたものの、建設を決断せず、観光産業によって外貨を獲得する地域として栄えてきました。その頃に、念願だった常神半島の先端までの道路も完成しました。
また、若狭までのアクセスも良くなったことから、琵琶湖で遊んでいた関西の人々が「きれいな海が広がっている若狭」をめざして押し寄せるようになりました。夏になると海水浴客から「玄関でも廊下でもいいから寝させてくれ」と言った声を聞くようになるほどで、一般の民家もこぞって宿泊業免許を取得し、民宿業をはじめることになりました。全盛期には、若狭町内だけで150軒程の民宿が建ち並び、バイトの学生さんも含めて大いに賑わいました。それは、時代の変化に取り残され、民宿も60軒ほどに減少してしまった現在とは別世界の光景でした。

民宿の後継ぎとして

民宿「湖上館」を経営する両親の長男として生まれた私は、「この地で湖上館の経営を継承する」のが当然のこととして植え付けられていました。そのため「学生時代ぐらいは、自由に!夢を持ち!何かに没頭したい!」という思いを強く持っていました。そこで考えついたのが「何でもいいから日本一になって、『JAPAN』の刺繍が入ったジャージを着たい!」ということでした。今思えば、この頃からおかしなことを考えはじめていたのかもしれません。
そこで私は、「日本一」になるチャンスがある地元の高校のボート部を選んで入部しました。練習は苦しかったですが、キャプテンをさせていただくなど充実した日々を送り、夢だった日本一にもなることができました。さらに、それに飽き足らず、上京して入った大学でもボート部で活動し、今度はオリンピック出場を目標に頑張りました。
大学時代にもキャプテンをさせていただき、全国から集まった強者50名ほどの指揮を取る経験もさせていただきました。この経験によって「どこで生まれようと、強い思いがあれば、みんなの先陣を切って目標に向かって走ることができる」と自信をもてたと思います。また、8人で息を合わせて漕ぐ「エイト」という競技を行っていたこともあり、みんなの力を合わせることで最高の力が出ることを実感できたことも今につながるかもしれません。その頃の戦友たちが、今も掛け替えのない仲間として全国に存在していることは心の支えとなっています。

さて、上京して私立大学に通い、さらに料理学校に通うというボンクラ生活を許してくれた両親。その資金源となったのは、まぎれもなく「民宿経営」でした。そのような状況でしたから、両親は「民宿は儲かるから、お前もやれば良い!それが幸せになる方法だ!」という勢いで、私は故郷へ帰り家業を継ぐことになりました。
ところが、そうは人生そんなに甘くはありません。私が継いだ頃は「バブル崩壊」と同時期で、時代が大きく様変わりするタイミングでした。「泊まれれば良い」と考えていた人たちも「非現実的な空間」を求めるようになり、観光や宿泊に対してそれまでとはまったく違う価値が広がりました。「このままではダメだ…」と危機感を覚えざるを得ない状況になりました。

また、「高度経済成長」時代の負の側面として、この田舎も環境汚染が進みました。きれいだった三方五湖が汚染され、父が若かった頃の湖の姿ではありませんでした。昔は「海で海水浴を楽しみ、その後に湖で塩のついた体を洗い流して宿の中へ入ってきた」というほど湖の水質は良かったのですが、そのような湖はもうありませんでした。このような状況の中、悩みを抱えながらも次の一手を考え続けました。

代替わりのタイミングでのチャレンジ

両親から民宿を引き継ぎ、代替わりをして「地ビールの宿 湖上館パムコ」を開業するのと同時期に、悩み抜いて決断した自然体験部「自然に大の字 あそぼーや」を開業しました。この決断は、2つの悩みを一気に解消することを狙ってスタートしました。
1つ目は、稀なこの地域の魅力を活用し、大資本の他社が資金を投入してもマネのできないサービスを提供すること。2つ目は、生活のために仕事を頑張ることで、自ずと自然が再生される仕組みをもったビジネスモデルをつくること。この2つの思いを組み合わせた事業が「自然体験事業」でした。

自然体験を楽しむステージとして、リアス海岸・透明度の高い海・三方五湖・豊富な食材…これらマネのできないこの地ならではの要素を十分に取り入れることによって、ここでしかなし得ないサービスを展開できる。また、自然を活用して生きていくことによって、自然への感謝の思いが強くなり、これまで以上に自然を大切にする心が芽生える。

「自然を活用しサービスを展開する」
→「お客様がその自然を楽しみに訪れる」
→「お金をこの地域に運んでくださる」
→「住民は自然を大切に思う」
→「自然再生へとつながる」
→「今以上に素敵な自然が広がるようになる」
→「今以上に自然を活用しサービスを展開する」
→「今以上にお客様がその自然を楽しみに訪れる」

このような持続可能な好循環のスパイラルをつくり出すことで、人間も自然も含めてみんなにとって喜ばしい環境が整っていくことをめざしました。

スポーツイベント開催への挑戦

自然体験部門「自然に大の字 あそぼーや」を開業して以降、カヤックツアーを中心に参加者は毎年、前年比で2乗の伸びをみせる勢いで賑わいました。
ところが、当初の目標の1つ目である「この地域」の自然体験サービスになることはできませんでした。私たちは地域の発展を見据えて取り組んでいるつもりでも、実際には「宿もやっているお前のところに客を紹介するなんてできるわけがない。常連様を横取りされてしまうやろ」と思われる宿が多く、みんなのためのサービスとして認められるような雰囲気ではありませんでした。「地域の人たちと肩を組んで地域の観光産業を盛り上げていく!」という願いは夢のまた夢でした。
また、自然体験の参加者が増えれば、その状況を知った人の中から新たな事業者が生まれ、その流れが連なっていくことで、この地が自然体験アクティビティの一大メッカになることもできるのではないか、という期待もしていましたが、これも新たな事業者が出てくることはなく実現に至りませんでした。

期待する結果にならなかった理由を冷静に考えてみました。さまざまな要因がある中でも、田舎ならではの「僻み・妬み精神」と「チャレンジ精神の欠如」がネックになっている。そして、そう思うと同時に、その風土から生まれる課題をどのように克服するべきかを考えるようになりました。それが、「若狭路魅力発見プロジェクト」へのチャレンジへと繋がりました。

「若狭路魅力発見プロジェクト」は主にスポーツイベントの企画・運営です。大きな目標を3つ掲げスタートしました。1つ目は、地域間の連携の大切さを知ってもらうために、わが町だけでなく福井県の南西に位置する「嶺南地域一帯」を舞台として活動することです。それは、地域をまたいで人・組織が連携、協力、共有することで、考えもしなかった結果を生み出せること知らしめたかったからです。協力し合うこと、力を合わせることが、この地域で生きていくために一番必要なことだと気付いてほしかったのです。
2つ目の目標は、行政に頼ることなく持続可能な仕組みをつくり、経済の活性化に結びつけようということです。それまでに私が関わってきた数々のイベントは「行政の予算」によって成り立ち、「カリスマの存在」によって継続されているケースが多く、持続可能な状態ではないと感じていました。そうした問題意識から新たなシステムを生み出し、地域の方々にその手法を見ていただくことで、これまでになかった新たな望みを感じていただこうと思いました。
3つ目は、この活動によって「交流人口」を増やし、今後の移住候補者を増やすきっかけにしたいということでした。

このような目標を立てて推し進めたのが、嶺南地域(6市町)それぞれの特徴・特産を活用したスポーツイベントの企画です。全国から参加者に集まっていただけるよう「若狭路スポーツトリップ」と銘打って、初年度は嶺南地域全体を活用したサイクリングイベント(若狭路センチュリーライド)と、若狭の山を活用したトレイルランイベント(若狭路トレイルラン)からはじめました。その後、毎年1つずつ新たなイベントを増やしていき、スポーツイベントを媒介に地域住民と参加者が交流するという新たな流れをつくることができました。残念ながら、この活動においても私の思いを斜めから捉える方々も多く、順調とは思えない場面も多々ありましたが、共感していただける方々とともに、8年後には「嶺南の6市町で一つずつイベントを開催すること」という一つの目標を達成できました。

若狭路活性化研究所の設立と若者育成への思い

スポーツイベントの開催をきっかけに、若狭町にとどまらず嶺南地域(6市町)で活動することが増えたことから、志のある皆さんの力を集約して活動した方が、より大きな力を生み出せるのではないかと思うようになりました。それを具現化する形で、8人が理事となって「一般社団法人 若狭路活性化研究所」を設立しました。初代の理事長を仰せつかり、これまで以上に「広域での活性化」を意識して活動することで、より広域で有志と繋がることができたり、幅広い視野で物事を考えることができるようになりました。

自分が暮らす町にとらわれることなく、近隣の行政区域にも協力を仰ぎながら開催してきたスポーツイベントですが、やはり、所変わればいろいろなご意見をお持ちの方々もおられます。幾度となく悲しい思いをしましたし、そうした状況に納得することができず途方に暮れることもありました。
挫けそうになっている中で、「思考が凝り固まった人の心を変えることは難しい。であれば、まだ成長段階の子どもたちに協力すること、助け合うことで得られる感動をたくさん経験してもらうことも大事なのではないか。即効性はなく、長期的な視点での活動にはなるけれど、その方が将来的に結果が得られるのではないだろうか」と考えるようになりました。それが子どもを対象としたキャンプ活動をする「若狭路自遊楽校」のスタートにつながっていきました。
初年度は参加者10人程の小さなスタートとなりましたが、最も多い年には450名程の子どもたちが関西や中京エリアから集まってくれました。この活動では参加するお子さんだけでなく、地元の方々や都市部から活動補助として来てくれた学生たちなど、年齢を超えて関係人口・交流人口を増やすことにもなり、さまざまな化学反応を起こすきっかけにもなりました。

これまでの活動を通じて、多くの20代、30代の若者と出会いました。その関わりの中で、この若者たちの成長に少しでも力になれることはないだろうかと考えることもありました。これからの地域を支えてくれようとしている若者たちが、「自分の人生を思い返したとき」「自分の生き方を考え直そうと考えたとき」「自分の考える幸せのカタチに思いをめぐらせたとき」などに役立つ大人の学び場をつくりたい。そんな思いからスタートした「若狭ソーシャルビジネスカレッジ」は、著名な方々にご講演をいただきながら開催しています。当団体の職員も参加し、多くの学びと気付きを得ています。

若狭で生きる幸せのカタチを求め続ける

地元の漁業組合が20年ほど前から運営してきた「若狭町観光船レイククルーズ」ですが、関係者の高齢化と観光地としての衰退もあり、次の経営者を考えていました。20年もの間、地域のために頑張ってきてくれた観光船がなくなってしまう影響は大きいと考え、「なんとかしたい!」それだけの思いで私たちが手を上げることにしました。令和6年に再スタートしたばかりのレイククルーズですが、周辺の観光施設との連携を強化しながら、若狭地域の観光を盛り上げて行きたいと考えています。そして、地域の高齢者が楽しみながら働くことのできるコミュニティの場としての役割も持たせながら運営していこうと考えています。

世の中がAIで盛り上がる今。ここに来て、新たな仲間ができはじめています。地元を盛り上げたいという思いを強く持った若者たちです。私自身は数年後に還暦を控えた最年長ですが、これからを担う若者たちとともに50年先の若狭を見据えた「若狭50年プロジェクト」というチームをつくり動きはじめました。なんとしても「夢のある若狭」を創造したい。主体的に集まった意欲のみなぎるメンバーとともに、これからもチャレンジ(実験)を繰り返していきたいと考えています。

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